よりによって激しい風雨、しかもアラレ混じり。
丑三つ時過ぎの闇の底、疲労と眠気と寒さと雨のせいで、泥水にぐっしょり浸かった雑巾のような身体が、ようやく辿り着いた小屋の軒下にべちゃりと落ちた途端、それから一向に振り絞る力が湧いてこない。
山頂まであと一合。その一合が、長い。
ぼくにとって8度目となる、そして20年ぶりの富士登山は、中学生の娘たちにとってはデビュー戦だった。
全く気の毒なコンディションとなってしまった。
越冬のニホンザルのようにひと塊になって少しまどろむ。
気が付くと風雨は弱まり、闇が薄れ始めていた。
振り絞るでもなく、溶岩に身を引き摺るように再び登る。
山頂についたころには日の出時刻を過ぎていた。
もとよりこの天候ではご来光を拝むことは叶わず、ただ空気が黒から白へ変わっていった。
富士山火口 |
下界から運んできたガスコンロと水、カップラーメン。
今は小さなコンロの火でさえありがたい。そして至福のジャンクフード。
少しばかり絶景を恵んでもらって、清水港や三保を指差し確認する。
富士山本宮浅間大社奥宮を詣でた後、郵便局で娘たちが絵葉書を送って、余力を考えてお鉢はめぐらず下山する。
下りはまた過酷な道のりとなった。
標高と反比例して疲れと足の痛みが増す。
もはや表情筋にエネルギーが行き渡らなくなった娘たちに、覇気のない激励の言葉を掛けるが、ぼく自身も無表情に違いない。
エネルギーを補給するべくチョコレートを口に運ぶものの、人は疲れすぎると食べることさえ億劫になる。
そうして、ようやく、ぼくたちは生還した。
何を為すにも心技体は大事、きちんと整えなければならない。
それからもうひとつ、道具も。
ぼくがここまでボロボロになったのは、もちろんその全てに理由があるのだが、ひとつ触れておくべきは「道具」についてである。
久しぶりに物置から出したトレッキングシューズ、ソールの樹脂が劣化していて、嘘のようにみるみる崩壊したのである。
ビニルテープでぐるぐる巻いて、替えの靴下を靴の上から履くこと2回。
仕舞いには無残な姿となった。その時のぼくの足そのものにも見えた。
娘たちは言う。
「もう二度と登りたくない。」
まぁ、すぐに「二度と」など言わずに、痛みの記憶が薄れたころにまた考えればよい。